昭和四十三年一月十四特別奉修委員に対する御理解


 今度、二十七日隈田博士がみえられます。本当にもう、合楽だけの為に来て頂くには勿体ない方なんですが、ご本人が、ああしておかげ頂きたいと言うて、みえるものですから、よっぽど、こちらが受け心とゆうかね、受け入れ体制とゆうものを、勿論信心のです、作っておかなければ、おい出になってがっかりされる様な事であってはならない。本当に来てよかったとゆうような、先生の信心も頂くと同時に、先生にも合楽の信心を分かって頂きたいし、それを結局表すのは、皆さん方一人一人なのです。
 丁度二十年になりますか、隈田先生が、当時連合会とゆうのはございませんでしたが、久留米を中心にして、来て頂き、一夜信心実習会がございました。その時、説教台の上から、いろんな質問を求められた。その時文男先生が、こうゆう事を質問しました。もう、あの人が修業中の時でしたから、わりわりしている時分でした。
 あの私共の教会では、おいさみが大変あるんだけれども、おいさみの事について、どう感じられますか。といった霊徳面の事を、いろいろ尋ねておりました。九州の方には、おいさみとゆうようなものがあるそうですね。私共はまだ知りません、といった調子です。先生、あなたは病気になったら、薬を飲みますかとゆう文男さんの質問に対しましてねえ、もう私は、その時の事だけは忘れられません。先生がどうゆう事を言われたかとゆうと、そうですなあ、金光様の信心を本気に頂いとったら、病気はしませんよとおっしゃった。もう薬を飲むとか飲まないとか、返事されませんでした。そりゃ当然病気になったら医者にもかかるくさ、薬も飲むよと言われるだろうと私は思っとったんです。金光様の信心頂いとったら、病気やらしませんよと言って、家族中が薬やら飲んだ事はないと説明されました。それから思うのです、本当にめぐりが大きゅうても、どうゆう難儀をかかえとりましても、金光様の信心をまともに頂いたら難儀を受けなくても、おかげが受けられる。病気をしなければならないめぐりがあっても、それを信心の修業でカバー出来るようになったら病気はないはずですよ、金に不自由するはずないです。本当にまともな信心が出来とったらですね。それを私共出来んから、病気をしましても、やれ痛や、今みかげをとゆう気持で、それを受けとめていって、様々な難儀に直面しましても、その難儀を有難く頂く稽古ばっかりを椛目ではしてきた。だからそれを頂く稽古ばかりでなくて、本当言うたら、隈田博士一家のように、金光様の信心したら、金に不自由するこたあないて、病気する事もない。そうゆうおかげの頂けれる道なんです。ですから、いかに本当の信心を身につけていかなければならないかとゆう事なんです。本当の信心がひとつの基盤となっての信心でなければ御利益ばっかり願っておる信心では、何時迄も御利益下さい御利益下さいと言っておらねばならないようになってくる。金に不自由する、病気はする、人間関係のややこしい問題が起きてくる。
 今日は、伊万里の竹内先生が二時半から向うを出られて、朝の御祈念を頂かれてあります。中にお届けされるのに津上さんとゆうおばあさんがおられますが、お夢を頂いてある。ヒルが体のあっちこっちにくっついておる。それを一つ一つ取り除いているところであった。ですから、ヒルは可愛らしい生物でもないんですよね。もうやはり気持が悪いんです。吸い付かれたらいやですよ。けれども日常生活には沢山ある。あげな奴とは顔も合わせようごつなか。そうゆう問題は、もうごめんだとゆう事があるんですけれども、それこそヒルのくっついておると思うて、今こそ、悪血悪毒をお取り払い頂いとると思うて大事にしなかけりゃいけない。それによって悪血悪毒をお取り払い頂けれる信心をさせて頂かねばならない。そこんところが分からんと良い信心が出来ない訳です。そして、これが真の信心とゆう事なんですね。
 千足の古賀さん、有名な信者さんなのですが、戦争中貨車一台、自分の山を切って炭を焼き、金光様が御不自由になっちゃならんとゆうて、木炭の非常に喧しい中を御本部へ送られたとゆう偉いお婆さんでした。そこに、昔、話に来てくれと言われたので十人ばっかしで行った事がある。一晩泊りでお話させて頂いた。その翌日、お茶を頂きよる時に、先生、これは私の家の家宝でございますとゆうて白扇を出された。これは金光様にお願いして、これは古賀の家の宝にしますから、どうぞひと筆何かお書き下げをお願いしますと言うて出された。そしたら、もう小さい小さい、もう本当に小さい文字で真ん中に、真の信心と書いてあるんです。扇いっぱい書いてやりなさりゃいいのにと思うところですが、さ、そこはさすがは金光様ですねえ、見せるもんじゃありません、頂くもんですとゆう訳です。
 お道の信心させて頂いとりますと、真の信心と皆?なが使います言葉です。真の信心すりゃおかげ頂く。そりゃおかげ頂く事は分かりきったこと。もう本当にこの世に極楽?のおかげを頂けるはずなんです。真の信心さしてもらえりゃ難儀な問題があったらめぐりのお取り払いと頂き、いやめぐりのお取り払いも修業でさせて頂けばいいんです。自分達が率先して修業でお取り払い頂い??いいんです。わざわざ苦しい思いをしてからお取り払い頂くよりも、こちらから進んでさせて頂けばいいのです。そゆう真の信心を、本当にさせて頂いたら、そげなこつあろうはずはないとゆう事なんです。金光様の信心させて頂いたら病気やらしませんよ、その一言で隈田先生の信心のどうかとゆう事が分かるでしょう。
 その古賀さんの所で、真の信心とゆうお書き下げを見せて頂いてから御祈念させて頂いた。どうゆうような事であろうか、あまりにも使う、又あまりにも大事な事なんですよね、真の信心とは。そしたら三代様のお声で頂いたんです。「安心のおかげを受ける事であります。」とゆう、お言葉を頂きました。真の信心とは安心のおかげを頂くとゆう事。そうゆう意味合いで隈田博士の場合は安心のおかげを受けておられるとゆう感じですね。それこそ火の出るような修業をなされます。金光様の三時五十分のお出ましを、あれを三時半頃から、あの教徒社のお便所がありましょうが、あそこが隈田先生の席と呼ぶくらいに、あそこへ一家が出られて金光様のお出迎えを一日だってかかした事がないとゆう熱烈な方なんです。もう、おして知るべし、学問も博士号を持っておられるぐらいだし、金光学園の校長を長い間なされました。無償校長、給料を取られなかったそうです。もう御用に生き抜かれた方なんです。その隈田先生が、金光様の信心しとれば金に不自由するような事はありませんよと言われた。これは覚えてますが、お話し中電報がきたんです。そして、その時、お金に不自由しないとゆうお話を一生懸命なさっておられたんです。お金はこんなにして、尽きぬ程おかげ頂くとゆう話を、その時丁度電報が来て見られると、どこどこの会社から、どれだけのお金をもらってくれとの電報でした。こうゆう風ですと、実際見せてからお話なったんだけれどもね、やはりいかに本当の事が基盤になった信心が大事かとゆう事。そうゆう意味に於いても、私共、いよいよ真の信心を目指した信心がなされてゆかねばなりません。どうぞ。